12月18日 福井県若狭高浜の一瀬五右衛門家の二男として誕生。
幼名は常次郎。父は信典、母は安子で農業を営んでいた。
生家の近くの寺小屋(長福寺)へ通い、教育熱心な印宗和尚から読み書きを習う。高浜の風習で、夏の午後は謡曲の師匠の元へ通う。(写真は寺小屋であった建物)
親戚の越渓守謙に付き出家し、京都の妙心寺塔頭の天授院に入る。その後、泰雲寺(名古屋市)、建仁寺 (京都市)、三井寺(大津市)等で修行する。
建仁寺両足院の俊崖和尚から、上に立つ人の心掛けを学ぶ (※1)
越渓守謙の師である岡山曹源寺の儀山善来(福井県おおい町大島出身)の随侍となる。まだ小僧ではあったが、入室参禅を許され提唱を聞く。
17才で洪川宗温に請われて鎌倉の円覚寺僧堂に入り、厳しい修行後23才で洪川宗温より印可証明を受ける(大事了畢)。
明治17年(25才) 塔頭の仏日庵住職となり、「洪嶽」の道号を受ける。
洋学・英語を勉強するため慶應義塾の別科へ入学。この入学に当たっては師の洪川宗温は反対したが、洪川宗温門下の陸軍中将鳥尾小弥太が賛成し、後押しした。外見を気にせず僧衣で通学し、時々は塾長の福沢諭吉に禅の話をしたらしい。1887年に卒業。(※1)
27才で山岡鉄舟、福沢諭吉等の勧めもありセイロンへ渡航し、南方仏教(パーリ語、経典、戒律)を学ぶ。山岡鉄舟から「和尚の目は鋭すぎる。もっと馬鹿にならないかん。 インドでも行ってこい。」と押された。約3年後に帰国。
セイロンから帰り、横浜の宝林寺僧堂で雲水の指導にあたる。「仏教各宗綱要」の編集委員に選ばれ、「臨済宗綱要」を仕上げる。(※1)
洪川宗温の遷化に伴い、32才で円覚寺派管長に就任。この若さでの就任は、鎌倉時代の南禅寺住職の南院国師以来である。新進気鋭の管長に面会や参禅のため多くの人が円覚寺に集まる。
世界19ケ国、13宗教の宗教家が集合した米国シカゴでの万国宗教大会に出席し、「仏教の要旨ならびに因果法」との題で演説。日本の代表団は、釈宗演他高僧3名(天台宗、真言宗、浄土真宗)。釈宗演はその代表格で、日本仏教を西欧社会に広めるチャンスとの考えから積極的に参加。(写真右側から2人目が釈宗演)(※2)
明治27年12月23日から2週間、円覚寺境内の帰源院にて参禅。小説「門」はこの時の体験が元となっており、小説中の老師とは釈宗演のことである。
実業家 野村洋三氏の紹介で、米国サンフランシスコの大家具商ラッセル夫人、友人のドレッセル夫人等全4名参禅。外国人の日本での参禅第1号。約9ケ月間滞在し、雲水と同じような生活をした。(※2)
建長寺より建長寺派の管長就任要請があり、円覚寺派と兼務で建長寺派の第2代管長に就任。現在までに、大本山2ヶ寺の同時管長は釈宗演のみである。明治38年、両管長を辞任し東慶寺に入る。
生・死に直面した時、仏教の教化ができるとの考えもあり、第1師団の従軍布教師となり約4ケ月間従軍。乃木大将や師団長(伏見宮貞愛親王)の前で講話したこともあった。(※2)
以前から海外布教の志が有り、またラッセル夫人の勧誘も有り渡米する。サンフランシスコのラッセル邸に約9ケ月滞在し禅を指導する。 海外に禅を広めた日本人第1号。その後、東海岸に移動しワシントンでセオドア・ルーズベルト大統領に面会。世界平和等について談話する。更にヨーロッパ、アジアを歴訪する。
明治44年朝鮮巡錫(約1ケ月)を皮切りに、大正元年 満洲巡錫(約1ケ月)、大正2年 台湾巡錫(約1ケ月)、大正6年 支那(中国)巡錫(約2.5ケ月)と精力的に布教する。支那(中国)巡錫においては、禅宗初祖達磨大師が壁に向かって9年間坐禅した少林寺へも参る。
妙心寺派の懇請により臨済宗大学 (現在の花園大学)の第2代学長に就任。(※1)
漱石の遺言により戒名を付け、青山斎場での葬儀の導師を務める。 葬儀での「喝!」の大声は参列者の度肝を抜いた。(※1)
11月1日 住職をしていた東慶寺にて肺の病気により示寂(59才)。 円覚寺での津葬は、空前の盛儀(1000人以上)であった。東慶寺にて眠る。
(※1)写真はインターネットより引用
(※2)写真は井上禅定著「釈宗演伝」より引用
(c)釈宗演顕彰会