平成28年度に高浜中学校美術部が制作しました紙芝居「宗演(そうえん)さん」をご紹介いたします。
今から百五十年ぐらい前のお話です。若宮の一瀬五右衛門さんの家に5人目の子どもが生まれました。元気な男の赤ちゃんで、名を常次郎と名付けました。常次郎は高浜の豊かな自然の中で、すくすくと育っていきました。
常次郎は本を読むのが大好きで、食事のときも本を離しませんでした。冬の寒い夜は、囲炉裏を囲み、薄暗いランプの灯の下で、お兄さんの忠太郎は声に出して本を読み、常次郎はそれに耳を傾けました。お父さんは仏壇の前でお経を読み、お母さんは子どもの着物を縫います。お姉さんは、明日の食事の準備をしています。
常次郎が十二歳のとき、桜の花がちらほらほころびはじめたころに、高浜出身の有名なお坊さんが、高浜に里帰りしました。感激した兄の忠太郎は、是非弟子になりたいと思ったのですが、自分は家の仕事をしなければなりません。そこで、弟の常次郎に自分の代わりにお坊さんになってほしいと頼みました。常次郎もお坊さんになろうと決心します。忠太郎はお坊さんに弟を弟子にしてほしいと何度も頼み込みました。
お坊さんは常次郎の黒い瞳をじっとみつめ、「一人前のお坊さんになるには、つらい修行をしなくてはならないが、しんぼうができるのか。」 と尋ねると、常次郎は、「はい、誓って修行に耐えます。」と、元気に答えました。
翌朝早く、お母さんの真心のこもった新しい着物を着て、常次郎は十二年間育った家に別れを告げました。 「大きなお寺の住職になっておくれ。」 と、お父さん。 「修行を積んで立派なお坊さんになるんだよ。」 と、お兄さん。お母さんは、 「体に毒なものは食べるなよ。元気で暮らしなさい。」 と、涙ながらに送り出しました。
親戚や、お兄さん、友だちが青葉山の麓まで送ってくれました。 「さようなら。」 「元気で暮らせよ。」
常次郎は「宗演」と名づけられ、京都のお寺での厳しい修行が始まりました。 朝は三時に起き、座禅やお経の稽古、和尚さんの食事のお世話、肩たたき、学校の勉強と、一所懸命に修行に打ち込みました。夏の暑い日も、手足のちぎれそうに冷たく寒い日も、宗演は修行を続けました。
お経も覚えなくてはなりません。最初の二、三回は兄弟子が一緒に読んでくれますが、それからは、一人で読まなければなりません。つまったり、読み間違えたりして、同じところを何回も読まされます。何回も読み間違えると、兄弟子の口調も厳しくなってきます。宗演は目に涙を浮かべながら、お経を読み続けました。
ある夏の暑い日、和尚さんがお出かけになりました。小僧さんたちは仕事をさぼって、昼寝を始めました。宗演も、廊下で大の字になって寝ています。涼しい風が入って気持ちいい。
ところが、まだ眠りにつかない間に、忘れ物をしたのか、和尚さんが帰ってきたのです。 「怒鳴られる。」 と思いましたが、 「どうにでもなれ。」 と覚悟を決めてそのまま眠っていると、 和尚さんは、小さな声で 「ごめんなされ。」 と言って、足をそぉーっとまたいでお部屋に行かれたのです。普段は厳しい和尚さんが、たとえ小僧であっても「ごめんなさい。」と足下を通って行かれる。宗演は和尚さんの愛情を感じたのでした。
宗演は、厳しい修行に耐え、いくつかのお寺で素晴らしい和尚さんにお仕えしながら、立派に成長していきました。 宗演は、二十七歳になりました。外国からたくさんの文化が日本に入っていましたが、外国の人にも日本の仏教を知ってもらうことは大切だと考えました。そこで、大学に入って外国のことを学ぶことにしました。坊主頭にお寺の着物を着て、学校の中を堂々と歩く姿を見た校長の福沢諭吉は、 「この坊主は必ず大物になるだろう。」 と言いました。
大学を卒業した宗演は、今度は貨物船に乗り込み、仏教が生まれたとされる遠くスリランカの国に向かいました。この時は師匠の和尚さんも止めましたが、宗演は聞き入れようとしませんでした。今とは違い、外国に行くのは命がけの旅でした。お金がなく、船の上で寝泊まりしていた宗演は、激しい雨に打たれると、びしょぬれになりました。
ようやくスリランカについた宗演は、貧しい暮らしをしながら、二年間スリランカで学びました。お釈迦さまの歩んだ土地を踏んだだけで、宗演は涙しました。
日本に帰る船の中でも、お金がなく泊まる部屋のない宗演は、船の上で寝泊まりをしていました。わずかなパンや水ももらえないこともあり、倒れそうになりながらも船旅を続けていました。ある夏の夜のことです。その日は風も吹かず、たいへん蒸し暑い日で、全身から汗が流れ落ちるほどでした。宗演が座禅をしていると、驚くほどたくさんの蚊が宗演さんを襲ってきました。手で振り払っても、振り払っても蚊は襲ってきます。その時、宗演は、こんなことを考えました。自分という人間は大して世の中の役には立たないかもしれない。ならば、今ここで蚊に自分の血を吸ってもらおう。蚊を満腹にさせてあげられるのなら、それで十分ではないか。
そう考えて、服を脱ぎ裸になって座禅を続けると、蚊のことは全く気にならなくなり、座禅に集中できるようになったのです。これは、お坊さんの間で今も語り継がれている有名なお話です。
日本に帰国した次の年、アメリカで世界宗教大会が行われました。宗演は、日本の仏教を代表して出席し、初めて外国で日本の仏教の話をし、観客から拍手喝さいを浴びました。その後も、宗演は世界を回り、世界の人に日本の仏教を紹介しました。これが、後に外国で仏教のブームを起こすきっかけとなりました。
宗演は、鎌倉の円覚寺の管長になり、それからも世のため人のために、世界の国々や日本国中を忙しく回りました。また、たくさんの優秀な弟子を育てました。たくさんの人に惜しまれ、宗演は五十九歳でその生涯を閉じました。けれど、宗演の仏教にかけた思いは今も生き続けています。
(c)釈宗演顕彰会