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師・交流人物

越渓守謙(最初の師)

若狭高浜生まれで、釈宗演とは親戚にあたる一瀬「しまや」家生まれ。
岡山曹源寺の儀山善来に印可を受けた後、 京都妙心寺に入り天授院僧堂を開く。
高浜へ帰省した時に、釈宗演を天授院へ連れて帰り出家させる。
釈宗演の師匠で名付け親であり、妙心寺派 第4代管長に就任した。(※3)

儀山善来(越渓守謙の師匠)

福井県おおい町大島の後家生まれで、同じ大島出身の大拙承演を頼り、岡山の曹源寺へ入る。 その後、曹源寺・妙心寺・大徳寺の各住職を歴任。
最後は曹源寺に帰り、雲水を厳しく指導。越渓守謙、洪川宗温、滴水宜牧を育てた。
釈宗演は17才の時、約1年間随侍した。

三原田宗元(幼友達)

高浜町和田の本郷家生まれで釈宗演の幼友達。最初は僧を目指したが実業会に入り、東京に和菓子製造問屋「三原堂」を設立。
釈宗演は、上京時には「三原堂」を訪れ、昔話に花が咲いた。(※3)

今北洪川(洪川宗温)

円覚寺派の初代管長。越渓守謙から釈宗演をもらい受け、弟子にした。
円覚寺の正伝庵に居士の参禅道場を設け、大衆の布教に努めた。鳥尾小弥太、山岡鉄舟、鈴木大拙等が参禅。
釈宗演の慶應義塾入学、セイロン行には 最初反対したが、鳥尾小弥太等が賛成し、やむなく認めた。(※1)

鳥尾小弥太(軍人、政治家)

長州藩萩生まれで倒幕運動、戊辰戦争等で 活躍し陸軍中将に昇進。
その後、枢密顧問官、貴族院議員等を務めた。
晩年は一切の職を辞し、今北洪川の元で仏教を信奉する参禅生活に入った。
釈宗演の慶應義塾への入学に賛同し学資を出した。また、セイロン行きには多額の餞別をした。(※1)

山岡鉄舟(幕臣、政治家、思想家)

江戸生まれで、剣・禅・書の達人。
江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談をお膳立てし、明治維新後は明治天皇の侍従を務めた。
相国寺独園、天龍寺滴水、円覚寺洪川に参じ天龍寺滴水から印可を与えられ、今北洪川らと共に一般人の禅会「両忘会」を設立した。
釈宗演セイロン行の最大の支援者である。(※1)

福澤諭吉(蘭学者、思想家、教育者)

中津藩(大分県)生まれで、江戸幕府の使節に随行し3回渡米後、慶應義塾を創設。
釈宗演の塾内での立ち振る舞いから、「この僧、他日必ず一山の貫主であろう」と見抜いていた。
釈宗演セイロン行にも支援。(※1)

鈴木大拙(宗教学者)

金沢市生まれで、東大在席中に今北洪川に参禅。
今北洪川示寂後、釈宗演に参禅し居士号「大拙」を受ける。
シカゴ万国宗教大会での釈宗演演説文を英訳。
釈宗演の命により11年間渡米し、仏教、禅を世界に広めた。
釈宗演の2回目の渡米時には、ルーズベルト大統領との面会で通訳を務めた。(※1)

野村洋三(実業家)

岐阜県出身で、横浜に外国人相手の古美術店を営んでいたが、大正に入ってホテル・ニューグランドを創立。
昭和になり、横浜商工会議所会頭、横浜日米協会長を歴任し、横浜の経済・文化発展に寄与。
シカゴ万国宗教大会に同行し通訳。また、観光で日本に来た米国ラッセル夫人が坐禅に興味があるのを知り、釈宗演に紹介した。(※1)

夏目漱石(小説家、英文学者)

小説「坊ちゃん」、「吾輩は猫である」等の著者。
漱石28才の時に釈宗演に2週間参禅(居士名簿233番目)し、この時の体験を小説「門」に書いた。
漱石46才時には満洲鉄道総裁の中村是公、理事犬塚氏と東慶寺を訪れ釈宗演に面会。この時の様子を随筆「初秋の一日」に書いた。
漱石の遺言により、漱石の葬儀導師は釈宗演が務めた。(※1)

ポール・ケーラス博士(哲学者)

米国イリノイ州ラサールにて科学的宗教の立場で、雑誌「オープン・コート」等を発行していた。
シカゴ万国宗教大会での釈宗演の演説内容に刺激され、「The Gospel of Buddha」を著述。
これを鈴木大拙が和訳「仏陀の福音」として発行。これが縁で釈宗演の勧めにより、鈴木大拙は11年間、米国オープン・コート社へ行き翻訳の仕事を行った。(※2)

皇太子殿下(後の大正天皇)

明治34年11月1日に円覚寺を訪問された。
大方丈で小憩され釈宗演と懇談されたが、この時、「仏陀の福音」(米国ポール・ケーラス博士の書)の原書に目を止められ「借りて行くぞ」と持ち帰られた。
下山の時、釈宗演の愛犬に目を止められ、自分で馬車に乗せられ連れて帰られた。追って、鎌倉の御用邸から「滞在中貸し置けよ」との沙汰が有ったとのこと。(※1)

ラッセル夫人(米国家具商)

米国サンフランシスコの大家具商の夫人で、明治35年来日し友人のドレッセン夫人等と釈宗演に参禅。日本での白人参禅第1号と思われる。
明治38年、今度は釈宗演がサンフランシスコのラッセル邸に滞在し禅を指導。
ラッセル夫人は日本座敷・日本庭園を造り釈宗演を迎えた。ラッセル夫人が亡くなった後、釈宗演は東慶寺に供養塔を建立した。(※2)

佐佐木信綱(歌人・国文学者)

三重県鈴鹿市生まれで東大古典講習科卒業後、歌の発表、歌誌の刊行、歌人の育成等を行った。
歌会始撰者でもあり、皇族にも和歌を指導。釈宗演に和歌を教えた。
釈宗演示寂後、釈宗演が作った和歌「楞伽窟歌集」を編さんし東慶寺から発行。(※1)

高浜虚子(俳人・小説家)

愛媛県松山市生まれで正岡子規に師事。柳原極堂が創設した俳誌「ホトトギス」を引き継ぎ、和歌・散文などを加えた俳句文芸誌に発展させた。
大正3年俳句仲間に勧められ釈宗演に参禅し、この時の様子を「ホトトギス」に掲載 (S17年5月号、S32年7月号)。(※1)


(※1)写真はインターネットより引用
(※2)写真は井上禅定著「釈宗演伝」より引用
(※3)写真は高浜町郷土資料館「平成15年度企画展 釈宗演」より引用